所司代手留帖
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2010/01/28(Thu)
追悼
ミツルギ
人間、夜は一日に入ってくる情報のストックがまだ処理しきれないまま蓄積されて、睡眠中に脳はそれらの情報を分析、整理しなおすのではないかと思えます。
その最も蓄積された段階で、大ニュースに出くわした瞬間、脳はフリーズするしかない。
とりあえず、強制終了でもして立ち上げなおすしかないPCのような状態になるのではないかと。
ミステリ作家・北森鴻氏が逝去されました。25日のことです。積んでおいた新聞の訃報欄を読むまで気付かなかった自分が愚かしいのですが。
享年48歳。ありきたりな言葉ですが、早すぎる。
氏の作風は緻密な取材と構成の確かさに裏打ちされたオーソリティなミステリが持ち味でした。
一時期ブームになった某大学推理研出身者のようなトリッキーな推理小説は、実は私は苦手で、ミステリからは久しく遠ざかっていたものでした。
ですので、氏の小説に出会って欣喜雀躍したものです。
民俗学、骨董、古美術、グルメ、古典芸能とお詳しいにもかかわらず、薀蓄に傾き過ぎない理知的で清々しい筆致も魅力のひとつでした。
たとえば、日本人のネーミングの場合、父親の名前の一文字をとって子供につけるとか、武士の名前のように代々同じ漢字を一字入れるとか、兄弟で同じ一字を使うとかいう命名がありますが。
中国人は兄弟では同じ漢字を用いません。親子でも同じです。尤も時代によっても流行があるので、すべてがそうではありませんが。
以前、とある小説を読んでいて、中国系の人物の兄弟に同じ漢字が用いられていたので、「この作家、勉強不足だな」と思ったものです。そういう発見は、しばしばあります。わからないなら、生半可に知識をひけらかすなと思うのです。指摘しても、知らぬ顔ですし(苦笑)。そういう不敵な作家は少なくないです。
読者はいったい、どの道のプロフェッショナルかもわかりませんし、そんな人の手に取られる作品がノリだけで書き切ったものでは、世間を、そして文字をつらねて金銭を得ているという行為を舐めているように思えてならないんです。
それでも、すべてがすべて作家は知っていないといけないというものとも言えませんし、また誰しも間違いはおかすものです。要は謙虚な姿勢ですよね。
(余談ですが、SF界の大御所の方で、評論の中で徳川時代の将軍をコレラで死んだと書いていた方がいらっしゃいましたが、それは実際薩摩藩の藩主でして。しかも、事実は明らかではないし毒殺かもしれないという噂もあるものです。でも、誰も指摘せず、訂正もしていないのが文筆界の恐ろしさです。いやはや、いい加減というか、ネームバリューって……)
ところが、北森鴻氏の作品には、そういう欠点が見当たらないのです。
韓国朝鮮系の人物の名前は、中国とは違い、男兄弟では同じ漢字を用います。
その辺の日本と朝鮮と中国の命名方式については、また機会があれば考察を述べたいものですが、それはさておき。
氏の『狐罠』に登場する人物には、見事にその区別がなされていました。
「この人、やっぱり出来る」と感動したものです。
ドラマ化されたり(一度だけありますけど)華やかで目立つ作家ではないのですが、堅実でハズレのない作品ばかりでした。作中に時折見せる氏のやさしさや人間への情感が、ささくれだった心に一服の清涼感を与えてくれたものです。
いま、何より悲しいのは、氏の今後の作品が読めないということでしょう。
楽しみにしていたシリーズもあれば、まだ見ぬ世界の作品も。
作家としてこれから脂がのってくるという時期だけに、本当に残念でなりません。
哀悼の意をこめて、ここに記します。
2010/01/24(Sun)
きいろの香り
ミツルギ
18、20日に拍手を頂いた皆様ありがとうございます。
また間があいてしまいました、すみません(汗)。
私事でごたごたしていまして、落ち着かないまま日々が過ぎていきます。更新を……と思いながら、PCで行う作業はほぼ某所の原稿書きが占めているというありさまで、こちらは手付かず。
……ご訪問くださる皆様には申し訳ありません。
『きいろの香り〜ボルドーワインの研究生活と小鳥たち』(冨永敬俊/フレグランスジャーナル社)
新本で見つからず、やむをえず古書で手に入れた一冊です。
人生を変える(た)一冊といっても過言ではない本です。
少なくとも私にとっては。
簡単に言えば、日本人として始めてボルドー第二大学で博士号を取得したワインの研究者・富永博士の研究生活と成果をつづった本です。
実は、この著者である冨永博士は2008年にボルドーで逝去されています。53歳という若さでした。
本は2003年に出版されたものです。
もともと薬学の研究者であった富永博士が偶然にワインに出会い、その香りに魅せられて無謀ともいえるボルドーへの留学を決意し、白ワインの香の研究者としては世界で第一人者といわれるデュブルデュー博士に師事するところから、物語ははじまります。
そこから富永博士の苦悩と歓喜交々の研究生活が語られていきます。
内容のほとんどは、ワインを突き詰めた、もしくはこれからそうしようという人間でない限り難解そのものです。アロマがどうのプレカーサーがカシスの芽の香が……なんていう内容ですから。
その中の一章を割いて、「きいろ」という小鳥の話がつづられています。
ボルドー大学の敷地内でひろった黄色い小鳥の雛を富永夫妻はアパートで育てます。
やがて「きいろ」は換羽して、本当はメーテルリンクの『青い鳥』のモデルともなったメザンジュ・ブルー(アオガラ)という小鳥だったことが判明するのですが・・・…。
きいろが冨永博士の過酷な研究生活に安らぎをもたらしたこと、そして本当にしあわせの青い鳥のごとく、研究へのヒントを導き出してくれたことは、想像に難くありません。
小鳥を愛する私自身にとっても、あの小さい愛らしい生き物がどれだけ人間の孤独な心に歓びを与えてくれることか、思い巡らすだけで何とも言えず涙があふれてきます。
(余談ですが、ヨーロッパ人は小鳥が好きですので、富永博士が「きいろ」を可愛がることもすごく好意的に見られたようです。日本では農作物を荒らす害鳥とか、フン害がと嫌われていても、ヨーロッパではぶどうを食べる鳥を駆逐することはほとんどありません)
その「きいろ」の名前がつけられたワインが2006年に誕生しました。
メルシャン「甲州きいろ香」。
日本のシャトーメルシャンと富永博士のグループの研究が実ったわけです。
「きいろ」と出会うためにボルドーへ赴き、このワインを生み出すために一生を捧げたかのような博士の人生に乾杯を。
経済的に豊かであるとかそうでないとか、文系だとか理系だとか、物事を始めたのが早いか遅いか、そんなことは瑣末なことでしかない。とにかくひたむきに生きる、ということの意味をもう一度考えさせられた一冊です。
2010/01/14(Thu)
でぃすいずいっと
ミツルギ
30歳を超えてから、習い事やそれにまつわる勉強ばかりしています。
「何でなの?」
と訊かれても、本当のところは言えない。
「子供もいないし。気分転換したいから」
大嘘なんである。
「そうなんだ。趣味はいいよねー。こういうのって老後も出来るしね」
「そうですね」
いえ。老後のことなんて考えていません。今やりたかったから。
理由はハッキリしています。
「小さい頃におけいこごとを一切させてもらえなかったから」
そう。
「無理矢理」にでも習わせられるものもなく。やりたいものもなく。出来るような家庭の事情もなく。
そのルサンチマンがぶわあ〜っと吐き出されているとしか言いようがありません。
だから、体をこわしてまでも(?)休みにはせっせと何かに通っているのです。
しかし、どうしても子供の時しか出来ないというかやり難いこともあるのは確かです。
そろばんとか。大人の音楽教室というものもありますが、ピアノやバイオリンを今更習いに行くというのも何だか気が引ける。
そういう子供らしいおけいこごとを出来ないというデメリットと劣等感。
これだけはどうしても癒されません。どれだけ大人になっても。
子供の頃にある、子供らしい達成感とかその場で得られる一体感とか開放感とかですね。
そこで思い出すのが故・マイケル・ジャクソン。
今更追悼というのでもないのですが。
80年代初めてラジオを自分の手中にしたとき、毎日放送中に流れてくる彼の歌声を聴いて感動したものです。
リスニングの練習にもなりましたね。あの時代の洋楽はどのアーティストも印象深く残っています。
しかし、当初黒豹のように精悍でしなやかだったマイケルの容貌がだんだん変化していくのを見て、あれ?あれ?と思ったものです。整形疑惑、幼児虐待騒動……とさまざまなゴシップはありましたが、それもスターゆえに逃れられない運命。
黒人ゆえの苛烈な差別を受けたことも、マイケルはのちにインタヴューでほのめかしていますが。
彼ら兄弟は子供の頃、ステージパパだった父親に厳格に管理され、虐待に近いことまでされていたとも書いています。真偽はとまれ、客観的に見て幼い兄弟たちが天真爛漫であってしかるべき子供時代を窮屈に過ごしてきたことは誰も否定できないでしょう。
子供こそは、自由の王国の王様であるのです(ある意味で)。
怒られはすれど、デパートの中を走り回りたい。遊園地ではしゃぎたい。
友達同士でプールに行ったり、虫採りに行きたい。
そんな他愛のないことを、他愛のないことだったからこそ出来なかったルサンチマンは大きい。
失ったものは、金銭などではあがなえないものです。
心の空虚さ。
裁判に勝ったマイケルに思ったものは、疑惑が本当にそうであるのかどうかではなく、どうあがいても埋められない子供時代の自由を決して取り戻してはいないこと。
抹殺された子供のありのままの魂は生き返らないという悲しみであります。
さて。どうも気分が80年代に戻ってしまっていたのを元に戻して。
金銭的に余裕があるので習い事をやっているのでもないのは明白です。
習い事の為に働いているフシもあります。
それも、「生活の為に必死なのよ」ではなく、「習い事の為に必死なのよ」という気分を味わいたいだけなのかもしれません。それも一種のルサンチマンでしょう。どうしても生活と学費の為に土方と××以外は何でもやった、他に何も考えられなかった我が少年期と20代の反動として。
まあ、飽きたらやめると思います(笑)。
2010/01/13(Wed)
「心の傷」は言ったもん勝ち
ミツルギ
『「心の傷」は言ったもん勝ち』 (中嶋聡著・新潮新書 270)
こういう本が出るような世の中なんだ……というのが初っ端の感慨です。
一昔前の日本だと、問題にならなかったようなことが、この頃は一大事になります。
ウーマンリブだの女性蔑視だのと叫ぶひところのことを思えば、時代が変わってよかったと思うこともありますが。(とはいえ、いまだに女性軽視とか差別は根強いものなんですよ。身にしみてますから)
「こんなことまでハラスメントだとかになるんだ」ということもあります。
「心に傷を受けた」と言って、出社拒否する社会人のために診断書を書くとか。
角界の問題も取り上げられています。
そもそも「傷付いた」という言葉すら軽々しく口にするもんじゃあない、とは私の幼少からの教育において何度言われたことか。
「かあちゃんは、そんな簡単に傷が付くようなヤワなあんたに生んだおぼえはないよっ!」と尻をひん剥いて叩きまくる川崎のぼる描くところの肝っ玉かあさんのような人は、もう日本にはいないのでしょうか?
この本の著者である精神科医の先生ですが、これまで何度も診断書や意見書を書いてくれと頼まれて、つらい立場に立ったことがあるようです。過剰な被害者意識の患者たちには、もううんざりされているのではないかと思います。
交信のあるセラピストの方に、以前「実際に来られる方の悩みばかりきいていてうんざりしませんか?」とお聞きすると、「その通りです。というより自分も人間ですから、重〜い人生体験や相談に感情移入してしまってひきずられることもあるので(笑)。そこは自分は専門家ですから、そうならないように気分転換していますよ」とのお答え。
一部、当事者ではないと理解しにくいところもありますが、大体においてはなるほどなあと思うことばかりです、
私も常日頃口にしたりしていますが(自分に言い聞かせるためでもあります)、「精神力を鍛える七つのポイント」(第7章)の最初に挙げられている、「1.何事も人のせいにしない。」これに尽きるかと思います。
ええ。
「あの人がああしてくれないから仕事がはかどらない」「だって、あの人だってこういうことしてるじゃん」というのは格好の言い訳と逃げ場ですが、同時に自分を呪縛する悪魔の呪文。
外国人はよく自分に非があっても謝らない、と言われますが、彼らはそもそも思想が違うのであてはめてはなりません。一神教に生きる文化の人は、個人がおのおの神と契約しているのであって、人間同士が魂の契約をしているのではありません。だからこそ悪魔との契約というおどろおどろしい話もあるわけで……。
彼らは自身が神に恥じるところがなければ、他者に自己主張して当たり前なんであって、恥じるところあればただちに懺悔する。
そこを日本人は自分にいいように解釈したり、好き勝手にしていいと勘違いしてはいけないのです。
人は自由にできるのは自分だけです(実際、それもままならぬこともありますが)。他人を自由にする資格はないしそんな力もありません。変えられるのは自分だけです。
物理的な犯罪行為の被害のような、明白な例は別として日常的な人間関係の問題で、軽々しく「被害者づら」はしない。
迷惑している問題があれば穏やかに対話して解決を図る。一方的に相手を悪者扱いしない。責めない。
解決すべきはあくまでお互いの間に発生した問題点であって、相手を不愉快にしたり傷つけかえすことではない。
たとえ相手に非があると明白になっても、報復的言動は一切行わない。
それでなおかつ、引き下がる自分に唾を掛けるような行為を行う人がいれば、すなわちそれこそ病んでいる人であって、不必要にかかわることはありません。
そうであっても、私なら一つの可能性としては「この人の生い立ちにはどういう背景があって、ここまでそうさせたんだろう」と些か心配にもなったりしますが。
人間、表面的に見えるものは氷山の一角であって、そこに至る経緯や環境には複雑なものも紆余曲折もありますしね。
ちょっと違うなと思ったのは、著者からの若い人へのメッセージ。
「与えられた短いチャンスの間に、全力を尽くしてください。」とありますが、もう若くはない(爆)私から言わせれば、チャンスは24時間1440分86400秒のうち一時たりともチャンスでない時間などない。
逆にいえば、その一時たりとも失意を味わわないといえる時間が来ないことはない。
そう。いつ3億円の宝くじが当たるかもわからないし、石が頭に当たってあの世へいくかもわからない。
いわば、人間生きている間中全てがチャンスであり、全てが失意と喪失のうちにある。
だから、若いだと老いただの言わないで欲しい。
日々をそれなりに一生懸命尽くしてください。自分もそうありたいです。
2010/01/11(Mon)
わらぐつの中の神様
ミツルギ
小学校の国語教科書を読み返すことは、今はほとんどないのですが、昔教科書で読んだ作品はやはり印象深い。しかも、名作が多い。挿絵まで覚えています。
しかし、タイトルとか肝心な部分はうろ覚え(笑)。
「クラムボンって出てくるの、宮沢賢治の何ていう話だったっけ?」「タクシーに乗った女の子がモンシロチョウだった話のタイトルは?」「スーホの白い馬に出てた楽器は?」「最後の授業の作者って誰?」というような。
そんな代表作に、光村図書の小学校高学年用(5年か6年か忘れましたが)国語教科書にでてくる「わらぐつの中の神様」。
ずっと「わらぐつの神様」と意識してましたが、正確には「中の」がつきます。作者は新潟県出身の作家杉みき子さんです。
おばあちゃんが孫娘に、乾いてないスキーぐつの代わりにわらぐつをはいていけばいいよ、とわらぐつにちなむエピソードをお話するのですが……そういえば、小学校教科書にめずらしい「恋バナ」だった。しかも、孫に母親におばあちゃんと三人の雪国のだんらんにおけるガールズトーク(笑)。女性は昔からこういうの大好きだってのは、文部省(当時)も公認てわけですか。
結局、わらぐつの中の神様っていうのは「恋愛の神様」だったのか、どうなのか。それはともかく、神様がいたって孫娘がわらぐつをはいていく理由にはならへんやん!と子供心に思ったものです。
今の世の中、やっぱり一人だけかわったことをするといじめられますからね。冗談抜きで。
ほのぼの温まる話で、私は好きだったのですが、この物語について面白い考察をしたブログがあります。↓
http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/yomimono_folder/yomimono23_waragutsu.htm
なるほどねえ……と笑える半面、納得の部分も。
このブログ、他の記事も面白いのでご参考に。昔話や教科書のお話もさまざまな解釈があります。
2010/01/06(Wed)
ストイック宣言
ミツルギ
新年早々ですが、しごく真面目な私見を。
昔、映画『蘇る金狼』だったか『野獣死すべし』だったかのキャッチコピーで「狼は生きろ、豚は死ね」というのがありましたね。豚に対してあんまりな……という意見もあるでしょうが、子供心に衝撃的でした。
狼というのはあらゆる意味においてストイックで、豚は見た目のごとくのほほんと生きている人、というような喩えなのでしょう。
幾つになっても、ふとこのフレーズが頭をよぎることがあります。
日本人はもっとストイックに生きることに喜びを持たないと。
己の生き様にストイックに。
金儲けしようが、ニコチン中毒であろうが、酒びたりであろうが、女(男)遊びに耽ろうが、自分がこうと決めた道筋に沿って、あるいは目的を達成するためには一途で真摯であること。それがストイックではなかろうかと思うのですが。
一本筋が通った生き方の出来ることに楽しみを感じないと。
例えば、学生の身分で出来る限り親に頼らず自活しようと決めたなら、ダラダラ徹夜マージャンに付き合ったりしないでバイトにいそしむとか、自炊してみるとか、女の子にいわれるままにテーマパークに付き合って遊びに行くヒマがあったらレポートの為の勉強するとか、就活の資料集めに励むとか。余裕があって遊ぶならまだしも、カツカツで他人に迷惑かけっぱなしで、それでストイックに生きているとは思えない。
若者だけじゃない、どの世代を見ても「まあいいじゃん。今が楽しけりゃ」「とりあえず周囲から浮かないように同じことしとこう」という流されっぱなしな人の多いこと。
そこにストイックさは微塵もない。
かつて、物事を突き詰めて考えたり、インドアな趣味の人を「ネクラ」と嘲笑した文化に、私は近い将来の日本の暗雲立ち込める姿を垣間見たような気がしました。
どうせ私はネクラですよ……ってのもありますが(笑)、物事を自分の納得いくまで追究しようとしない姿勢は、それこそ世の中の物事全般、人々、引いては自分自身を冒涜しているのではないかと思っていました。
「今が楽しいけりゃいいじゃん」「誰もに愛されて幸せになりたい」という「幸せ教」みたいな思想が蔓延していることが恐ろしい。
現実には、楽しいことなどずっとありえない。誰もに好かれることなどまずない。
そして、これらの祝福や幸福という概念がいかに漠然としていて、主観的であることか。
禍福はあざなえる縄の如し、とも言いますが。幸不幸は実に背中合わせ。
他人の胸のうちも心底まではわからない。昨日までの親友が、明日からは宿敵になることもままあります。
そう考えると、「キャハハと笑ってお上手の一つも言って、流行のドラマを見て大勢と話を合わせ、同じような服を着て、とりあえず短大とか大学行って就職して、30までに結婚して、子供つくっていちおう一戸建て建てとこう」という感じの人生設計を親なり周囲から示されても、個人的には殆ど意味がない。
ネクラでオタクで、人付き合いが悪くて口も悪くて、結婚とか子供とかどうでもいい、という生き方だって別にいいじゃありませんか。
幸せの形、自己実現の形はその人の数だけある。
それを否定して「もっと明るくなれよ」と言う人のいかに多いことか。
私も何度か言われましたが、明るくなど決してなれない。いわゆる「明るくふるまう」ことは出来るけれども、所詮ネクラ(笑)。そもそも「明るい」ということの定義を述べよとか反論したりして、可愛くない子供だったのですよ。
勿論誰もに好かれたい、なんてのはウザイしごめんこうむる、な感じで。
明るい人は明るい人として、それでいいのです。そういう人がいると雰囲気が華やぐし。
ただ、私はそうではない。
そうではない人の存在も認めろ、と。
私は人として社会がどうあるべきか、自分の属するコミュニティがどうすれば円滑に物事を運べるか、企業であるならどうやって利益を上げ、モチベーションを上げるかを常に考える人間でありたいのであって。
人がそれぞれ穏やかに生活していけることがいちばんであって。
隣の人とだけ、気の合う人とだけムリクリに時間を作ってまで余計なコミュニケーションを取りたいとも思わない。そんな時間があったら、本の一冊でも読んで、人として考える行為の可能性を広げたい。
そして、常に考え続けることによって、ネクラのループは際限なく続くのですが……(爆)。
自分の咄嗟の欲望、刹那の快楽を満たすための道具の存在は否定しません。
ケータイとかゲーム機とかね。
人は「遊び」の部分を多く持っているからこそ人なのですし。ですが、そこに全て呑み込まれてしまうのは、およそストイックで賢明な生き方ではありません。
人が本当にしみじみとした喜びを見出すのは、他人に創られた出来合いのゲームやコミュニティにおける欲求の昇華ではないのです。
小さい頃に野外教室でつくった竹とんぼ。それが遠くまで飛ばせるようにうまく作れるまで何度もやり直し、飛ばせるようになった時の達成感。
暗記できなかった九九の段を諳んじられるようになった喜び。
或いは、自分が一から立ち上げたプロジェクトにスポンサーがついたという喜び。
論文が認められた喜び。
お客様から「ありがとう」と言われる喜び。
その数々の一瞬の喜びの為に費やされた日々。自分の時間、労力、思い、勉強、もしくは経費など。それら全てをいとおしむその気持ちすら喜びであり、達成なのです。
決して金銭そのものや、名誉そのもの、物品そのもの、表面的な人の好意そのものではありません。
自分がここまでモチベーションを高め、コンセントレイションを持って行ってきたという何物にも代えがたい喜び。それこそストイックに目標を達成したといえるでしょう。
身近にもいますが、物事を成し遂げた人の多くは、そんなストイックな生き様の片鱗を見せ付けてくれます。
若者に、子供にストイックに生きる喜びをもたらすような大人になりたいものです。
でもって、いい加減、軽佻浮薄な報道や教育やキャッチフレーズに満足してない人は結構いるもんだ、という認識を世の大人や有識者やマスコミは意識しないと、本当に日本は豚だらけになってしまうんではないかと思いますよ。
2010/01/05(Tue)
とりぱん
ミツルギ
>Rさま
こちらこそお久しぶりです。本年もよろしくお願いいたします!
相変わらずヒッキーな私ですが、そろそろリハビリモードに戻るのもいいかな、と。
「龍馬伝」録画はしてあるのですが未見なので、これから楽しみに観ます。それでは〜。
『とりぱん』1〜8巻(とりのなん子/講談社)
寝込んでから正月にかけては、この漫画にどっぷりでした。
作者はI県在住で、鳥の餌付け、虫など自然に触れる生活をつづるエッセイ漫画。自然に触れるといっても、ロハスやエコという流行の言葉とは違う、昔ながらの日本をにおわせる生活ぶりなのが共感出来ます。
造られた感のある自然保護はどうも苦手、という方がこの漫画にハマるようです。
タイトルは「鳥のえさはぱんの耳」という意味だそうです。
どんな動物も、どんな人も全部平等に、とか全部好き、とかいう迎合や偽善感がないのが読みやすい。あくまで作者の好きなものをつづるという姿勢。
ネットなどでこの漫画の反応を見ていると、意外に鳥好きな人が世の中には多いことがわかりました。その割には、鳥のすみやすい環境はどんどん減らされているように思いますけどね……。行政や権力者の方針が問題であるような気もします。
野鳥の保護のために研究目的以外の一切の捕獲や飼育を禁止する、というのも野鳥に対する関心や理解を減らしているように思えますし。
鳥を理解し、共存するという裾野が狭いために一部のマニアや研究者にしか知られてない事実が増え、あやまった知識でもって野鳥に接する人間も増えています。
餌付けに対する賛否両論も存在しますが……。
人型(神と同じ見た目)ではない動物は人間の使役の為にあるという思想が基本のキリスト教文化とは違って、八百万の神を崇拝し動物に人格(?)を認める日本人であるからこそ、まだまだこういう漫画が受け入れられるということを再認識。日本の文化は廃れさせてはいけないと思います。
2010/01/01(Fri)
謹賀新年
ミツルギ
皆様明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
なにはともあれ2010年が終わってみれば楽しいこともあったなあと思える一年でありますように。出来るだけたくさんの人々にとって。
体調は本調子ではないのですが、仕事は私のようなサービス業にとって大詰め感丸出しだったので、休まず行きました。
今年は、何年ぶりかで寝正月です。実家にも帰りません。てか、「好きなときに寝て起きて、好きなものを好きな量だけ食べて、入りたい時間に風呂に入れる数日間」というささやかな野望くらいかなえさせてもらってもええやん。
よそでお泊りは気を遣いますからね、ぶっちゃけ(爆)。
とりわけ私の場合は「好きな時間に好きなように風呂に入り、風呂上りを過ごす」が最も重要なのですが。
それが実現できないと途端にイラ〜と来ますからね。
うちのスズメたちにも年末年始の食堂営業は好評ですし。
2010年の抱負なぞ大それたことは申しません。
何となく更新できるような感じになってます。
でも、まだ不慣れなので予定通りには行きません(多分)。
というわけで、今年は「ゲリラ的更新」を目指します!>違
そして。
なんとか今年こそは「DIO〜」の続編をアップするぞ!
……するぞということにしておこう。
……するかもしれない?
……まあ、出来るといいなあ。
……というくらいの感じで(爆)。
2009/12/26(Sat)
やられた
ミツルギ
新型に。
「自分だけは大丈夫」なんて驕ったことは一切思ってもいなかったのに……。でもショックはショックですよ。
手洗いもうがいも一応やっていましたが(一部では意味がないというウワサもありましたが)、なあんの効き目もなかったことに愕然。というか、なる時はなる。
感染経路もあれこれ考えたものの、潜伏期間的にも空気感染が最もアヤシイので、たぶんJRの人身事故のあの時の満員電車だろうと。
「関節が痛い、だるいけど生理痛いつもよりひどい」くらいにしか思っておらず、気分が悪くて吐いたのも「整理痛ヤバイ。しかし病院休みやし」という程度に考えていて、二日以上経ってから床に就いて意識不明になり、起きたら半日以上経っていたという有様。
もちろんその前に仕事の件はなんとか手を打っておいたのですが、汗だくで熱が下がらない(無論、体温計をさがすとか計るとかいう行為も出来ない)、水分を摂ろうにも口も半分しか開かない、ほとんど出もしないのにトイレに行くにも貞子みたいに這っていくブザマな有様なので「やっぱ病院に行くしかない」と思って起きました。
世界がぐるぐる回っている。体がバキバキ音を立てているような感じで、それでもこの貧乏根性は(爆)「タクシーなど使ったらもったいない」とバイクに乗って近くの病院へ。よくよく事故らんかったものですが。
病院は年寄りのサロン状態で、先生は往診が忙しくて診察も遅れこんでいて、待つこと二時間……。
待合室で雑誌を読んだりTVを観るだけの気力がある人はまだいいよな……なんて心の中で思いながらぐったりしていると看護師さんが「気分が悪そうなので奥のベッドで休みませんか?」
ご親切は有り難いのですが、「横になるとまた意識不明になりそうなのでいいです」と断る。すみません、ご好意を。(つか、元気な年寄りこそ、周囲に気をきかせて静かにしてくれ……と思う)
「消化器症状がさほど顕著でないし、普通の(インフル)ように思えるけど、念のため検査しておくね」
と先生にいわれてさらに待つこと15分。
「出ました」
まるで泉アサノの「こんなん出ました」みたいに検査キットを見せられて
「新型です。仕事即刻休んでね」
そういうわけで、症状には個人差があるのでなんともシロート判断は危うい新型。
生理痛の鎮痛薬など飲んでいたらと思うと、ぞっとしない話です。
おそらく症状が出てきたのが2日前なので、この日病院に行かなかったらタミフルも効かなくなっていたという……。そうなると自力で治るしかないのですが、水分も殆ど摂取できない、何も食べてない状態でどこまで耐えられるものか。
「タレントの飯島愛さんね。あの人ももしかして、インフルエンザにかかっていてしばらくして自分では寛解だと思って病院にいかずにいたので、肺炎が悪化してるのに気付かずに亡くなったかもしれんから。若い人も気をつけなあかんのですよ」
とのことで。
何千万というウイルスに食い尽くされて、死屍累々の白血球たちの死骸を排出しているところです。よくやった自分の体、とほめておこう。冗談抜きで夢うつつに体内から未知の生物に食われているような感覚だったもので……。
全身、頬骨のあたりまで痛かったので、本調子に戻るまでにはまだ時間がかかりそうですが。
とにかく、今年はこれでもういい加減病気納めにして欲しい。
2009/12/13(Sun)
9年間の感謝
ミツルギ
申し訳ありません。サーバーのほうもトラブっているので更新が出来ません。いい加減勝手にセキュリティとかバージョンアップとか変えるのはやめて欲しいんですよね。
そのくせトラブル時(ユーザーの都合ではなく、先様の都合でですよ)にまともな対応をしてくれるところが少ない。文句言ってもしゃあないですが(笑)。
場合によってはどうするか……考え中です。とにかく時間がないので、現段階では放置しています、すみません。まずは報告まで。
いつの間にかサイト設置してまるまる9年が過ぎていました。
年を取るはずです。
初期の頃からお付き合いのある方は、少なくなってしまいました。勿論、黙して見守ってくださっている方もおられることに感謝しております。
この間、私生活でもさまざまな環境の変化があり、最近では少なからず物理的に時間のない状況がHP更新ののろさに影響しまくっていて忸怩たる思いではあるのですが。
「はやく(小説の)続きを」というお声も頂き、有り難く思う反面、適当に書きっぱなしのものをアップするのもどうかというので眠らせているのも、ままあります。まことに申し訳ありません。特に本サイトのほう。
正直、時勢についていけないのと、上記のような環境なのでコミュニティにおいても社交的に出来ず(都合のいいときだけ顔を出すというのも気が引けるので)、オンライン小説界という枠からはいささかはみ出た感じで引きこもっているのは否定できません。
ただ、自分の心の望まぬことと、訪問して頂く皆様の誠意に反することだけはすまい、というのは基本的に初心と同じです。
細々とこれからもやっていくかと思いますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
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