所司代手留帖
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2010/03/01(Mon)
祇園社神灯事件簿シリーズ完結
ミツルギ
『祇園社神灯事件簿五 神書板刻』(澤田ふじ子/中公文庫)
シリーズ第五弾にして、今回で最終巻です。
良質の時代小説は、良質のミステリでもあります。
通じての主人公は神灯目付役の植松頼助ですが、作者は、いつも頼助がヒーローめいた活躍をするのではなく、時には狂言回し的な立場においたり、聞き役に回したり、常に市井の人々にそのつどスポットライトを当てています。
無論、単なる勧善懲悪でもありません。
近頃のミステリ系ドラマも、単なる善悪、加害者被害者という立場分けで描いているものは減っていますし。
シリーズが終わるのは残念ですが、頼助の新たな旅立ちと、今後はじまるであろう頼助の友人たちを主人公にした物語を楽しみにします。
2010/02/26(Fri)
前巷説百物語
ミツルギ
『前巷説百物語』(京極夏彦/角川文庫)
京極さんの本は分厚いのでスタイリッシュな通勤は不可能(爆)。カバンはパンパンになるし、カバーなどつけていても厚みで「あ。京極堂だか何だか読んでる」とバレバレ。だから、カバーを取っ払ってひたすらバスの中で読んでいたら乗り物酔いした(笑)。
酔ってまでも、読書姿がみっともなくてもついつい読ませてしまう魅力があるのは、やはり作者の腕なんだろうなあと感じます。
くだんの内容は、『巷説百物語』一連の重要人物「小股潜りの又市」の若かりし頃のお話。なので「前(さきの)」がタイトルについています。いかにして、ただの不良だった又市が御行になっていくか……。ラストはお見事。
ま。今も昔も金だのご身分だのは揉め事に付き物。
青臭い若造とはいえ、又市のニヒルな生き方はカッコいい。この物語あって、のちの又市がある。
それにしても、お化けからくりの御行つまり仕掛けの原型には、なるほどと納得するものがあります。
「時代お化け物」というジャンル(があるのかどうかわかりませんが)にはされていますが、下手な時捕物帖小説、ミステリ顔負けの緻密なプロットと考証にはただただ感服するしかありません。
かといって、人間性を追求せずただエンターテインメントに走っている、というのでもありません。
時代を問わず人の業や感情を見据えた部分も大きく占めていて、その辺が京極作品の最も愛されるところではないかと再確認いたしました。博識でキャラ造りや筋書きが上手いというだけの人なら、プロにもアマにもたくさんいますからね。
申し分なかったんですが、一つだけ文句を言わせて頂きたい。
解説はいりません。
というか、解説を書いてる方が私は好きではないので(ヲイ)。的を射ていないというか、このシリーズのほかの本を読んでないのが丸わかりな書き方はいかがなものかと、ええ。それでいいんですか?出版社は。
ともかく、続きがあるとうれしいんですけどね。
というわけで冬季オリンピックを見ていましたが。
うわべの華麗さやできばえで判断するのが競技なのか、アスリートの内面から滲み出すものも評価すべきなのか、無難にこなすのをよしとするか、突出した部分をより評価するのか……非常に考えさせられる今回のバンクーバーでした。
タイムアタック的な競技は致しかたないとしても、組み込まれる演技やノルマの難度の甲乙を判断するのは素人にはわかり難くて如何ともしがたいですね。
たとえばF1は「紳士の国」イギリスで生まれた「紳士のスポーツ」なので、前の車が故意にブレーキングをしたり、正当な追い越しのブロックをするときついペナルティが課せられます。
運営側やスタッフに対して暴言を吐いても、多大な罰金を課せられます。すべて自己責任、自己負担です。つまり、人品公正な人物であることが求められているわけです。
その辺のスタンダードは、他の競技にはどうなんだろう?ということも、アマチュア競技大会であるオリンピックに関してもっとプロトコルをはっきりさせていいんじゃないかと思いましたが。
別に服装の乱れが悪いとか、そういう部分でのみアスリートの人物評価を勝手に周囲が叩いたりするのではなく。さまざまな地方で発生したり、各々の発展過程をもつ競技の集合なんですし。競技によってはアスリートの参加平均年齢もさまざまですからね。
とまれ、人は文化、芸術、スポーツなどによって精神的にも豊かになれるのだと思いますし、今のスポーツ(モータースポーツも含めて)にお金をかけてる場合じゃない、という風潮は暗〜い予感の傾向だと考えますが、いかがなもんでしょう。
2010/02/22(Mon)
貧者は生まれながら貧者なのではない
ミツルギ
20日に拍手を頂いた皆様ありがとうございます。
「ワーキングプア」という言葉はすっかり浸透してしまった感があります。「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」ってヤツですね。
その言葉、決して経済的なことのみを指すものではない、と私は言いたい。
以前の職場は、正社員は相応数いるのですが、パートタイム勤務とアルバイトの人なくしては到底やっていけない会社でした。中小零細企業というものはどこでもそういう事情でしょう。
そして、こういう不況の世の中企業は、立場上パートさんから首切りしていくものなんです。大体は、ね。
果たして、このパートタイマーとフルタイム勤務という点で、日本ではどういう認識をされているのかというと、つねづね私は憤慨しないでおれなかったのです。
保険や税金の面の話はこの際おいときます。
パートさんは雇用形態があくまで時間を区切って働いている人なのであって、残業はないけど、職務に責任が生じないわけではない。
フルタイム勤務は、まあ残業もあるしそれなりのことはしないとならない。
どこが違うかって、時間給かそうでないかというのが大雑把な違いなんですよね?
私はそう認識しています。
そう。企業の経営者も「表では」私と同じことを言う。
サービス業などではとくに、顧客に対しては正社員だろうがパートだろうがアルバイトだろうが、その店の店員であるので、同じなんです。同じ「店の顔」なんです。
つまり、接客に関して相応の責任を持って行うという意味では、どの雇用形態であろうと区切りはない。
なのですが、実際は「パートなんだからそこまで責任もてないし」とパート本人も言えば、経営者までも「パートの人たちにそこまで責任持たせるわけにはいかない」となる。
つまり、責任ある仕事は実際問題、正社員に持っていくことになるわけです。
何か問題が起こったとして、パートは逃げるわ、経営者はお上の追及逃れ(労働基準監督署など)のためにパートに文句も言えないわで、常に泣きを見るのは正社員。
よくあることで、パートのAさんが夫の収入や家庭の事情で年間100万円分しか働けません、という。
平均的に計算して月勤15、6日てとこです。しかもAさん、忙しい土日祝日は休みたい。
すると学生アルバイトを投入する。アルバイトというのも、結構いい加減なので、急に休んだりする。
その埋め合わせをするのは誰?誰なんだ?
――正社員です。
「欠員が出て。キミちょっと今日は通しで出てくれる?」となるわけで。
企業は、Aさんの要求を聞き入れるけども、正社員は「時間に縛られていない」という理由だけで、必要以上に働かせるわけです。
厳密にいえば、36協定などを結んでいても、それ以上の法律に反した無理な残業は出来ないことにはなっています。
いますが、タイムカードを押さないで残業している人はこの日本に星の数ほどいる。
実際に自分が経験したことも、他所から聞いたことも含めて、「日本は現実には仕事に対して何の責任も持ってないパートタイマーが大きい顔をして、真面目な正社員が泣かされている」としか思えないことがいかに多いことか……。そんな正社員のサラリーをマジに時給換算したら、パートタイマーより低いに決まっている。
経営者は人件費を抑えるのに必死だから、パートに余計な金を使いたくはない。ちょっとでも正社員をサービス残業させたいのが本音。
これを「ワーキングプア」と呼ばずして、何と呼ぶのか?
否、金銭の問題以前に、そんなことをしていたら心が惨めになっていくとしか考えられません。
企業の都合のいい時だけ責任追及されて、ストレスが蓄積し、プアな心になる人も少なくない。
何より、仕事に対するモチベーションの低下は甚だしいと思うんですが。
「どうせどんなに一生懸命やっても、別にほめられもせず、尻拭いだけさせられて、安月給でこき使われて、時間はないし、有給を取るのもはばかられるし、何の楽しみもない」と。
お先マックラ、て感じです。
声の大きい者だけが得をする、という言い方も出来ますし、「組織とは企業とは人である」という考えがないのだともいえます。
仕事そのものは、誰でも出来るようになっているのが会社組織です。しかし、勤める人は、その人でないといけない。
企業のエゴで責任ばかり押し付けられるのなら、いっそ拘束の少ない契約社員か派遣がマシ、と判断する理由はそこにあります。
その根本を考え直すところからやっていかないと、いわゆる「ワーキングプア」をなくすのは難しいでしょう。だって、拘束や責任でがんじがらめになってまでも正社員でいるよりは、時間給だって契約だって給料は多少少なくてもフリーのほうが精神的に楽だ、という人が多いんですから。
単純に労働時間が、時間給がという問題ではないわけです。
私はフリーターを責められません。フリーターの気持ちはよくわかります。
責任感の強い人ほど、こうした現実にうんざりしていくのです。ある人はウツになり、またある人は突然ブッチして仕事に来なくなったり。
いい加減な人間を許すんじゃない。文句だけ言う人間は、無理矢理にでも相応の責任を取らせればいい。
そして、目的が達成できたときの喜び、つまり仕事が完成したことの喜びを教えてあげればいい。
経営者は、人間関係が円滑にいったことに喜びを持てばいい。そこから新たに利益が生まれるかもしれないから。
そこにはパートタイマーだのフルタイム勤務だの経営者だのという枠はない。
それぞれが小さな喜びを持って仕事することが、お互いがそう仕向けていくことがモチベーションを上げるということになる。
……なのに。
日本の閉塞感というのが、こういうところに縮小されているというのをヒシヒシと私は感じています。
2010/02/16(Tue)
時代小説の見方
ミツルギ
新聞でも雑誌でも、書評コーナーでよく「時代小説の専門ではない作家が時代小説を手がけるようになった」といわれています。
確かに、現代小説の書き手が時代物を書いていることが増えているようです。
悪いことではありません。裾野が広がっていいことです。
しかし、滅多なことでは私はそういう作品は読みません。
「コンディトライ○○」という洋菓子屋さんが、「今度、どら焼きを作ったよ!」というのとはちょっとわけが違うような感じがしますし。
料理や製菓の基本と小説を書くのとはちと違うだろう、と。
また、ある時代小説系サイトでは「時代小説の現代性」が重要なのではないかといわれてもいます。
つまり、現在その時代小説を書いている作家の感覚や社会現象が反映されるということですね。そのことによって、今の若い世代が時代物に親しみを持つのではないかと。
私はその意見には否定的です。というか、それでは時代小説の時代小説たるゆえんがないような気もしますので。
そこは、享受する(読む)側の基盤が違うので仕方ありません。
およそ歴史というものは、解釈する者の生きている時代の感覚でのみ判断するものではない、というのが文学および歴史系学問を研究するうえでの基本なのです。
そう教わった、というか『巨人の星』のごとく叩き込まれた以上、ひとたび古文書を紐解いては、2010年に生きる人間の感覚として史実や詩文を解釈することはまことに居心地が悪いのです。
古文献に接するとき、私自身の頭の中の一部は中国の宋代や明代、あるいはもっと昔の長江のほとりの庵にいる文人のような時空へトリップしてしまえるといいましょうか。
ですので、昨年の大河ドラマは、文系学問を叩き込まれた夫婦二人して延々10ヶ月画面に向かって毒を吐かねば我慢できないような状態でした(笑)。だったら見るな、って言われても、見ないと文句も言えませんからね。
西洋文化に接した現代人の掲げる「愛」と、戦国武将の言う「愛」の定義の差は、隔絶しているものではないでしょうか。
また、義務教育で学んだことすらまともに覚えていない人間と、直江兼続のような一国の宰相たる教養人の頭では、考えることも視野も違い過ぎるのではないでしょうか。
ですので、薄っぺらなキャッチコピーを掲げるエセ時代劇大河ドラマなら、いっそ「いのち」みたいなのにしてしまえばー、と握り拳を作ったものです。
そう。
所詮、現代人である我々には、戦国時代の義とか政略結婚とか貞操観念とか家族とかいうものは理解出来ません。戦前のことですらすでに別世界なんですから。
「人間」としてのヒューマニズムおおいに結構です。時代を超越した感情、人としての義理人情は存在するでしょう。
しかし、「人道」そのものが何であるのか考えたとき、それさえも吹っ飛ぶことは幾らでもあります。
文系的ストラテジーから言わせれば、そのあたりの「現代と過去」の垣根が壊れることは実に危険なのです。
いかに過去の事実と自分が「対話」して、その学説なり物語を組み立てたかは、現代の科学と叡智を以ってして踏み込み、自己が過去の人として思考錯誤するという相矛盾する作業が必要であり、そこは非常に個人的なものであることが前提なのです。
理科系の電子アーカイブで発表するような公議に問われる発見と違うのはそこなんです。その部分を「現代人の感覚」で判断するのは、虫眼鏡で土星を見るようなもので。
「現代はどうして、こんなに無差別殺人とか病んだ人が大事件を起こすのでしょう?昔はそんなことはなかったはずです」
そうです。ありませんでした。なぜなら、精神的に病んだ人間は座敷牢に入れられるか、抹殺されていたからです。存在を消されていたからです。
こういうことは近年までありましたし、田舎ではまだあるのかもしれません。
例えば、この感覚を現代小説風に描いて、果たして表現し切れるものなのでしょうかね?
緻密に描き出そうとすれば、やはり緻密な取材と勉強が必要です。言葉一つとっても、その背景があるはずですし、江戸なら江戸の風俗史、宗教観、身分制度、料理、地理、服飾……すべてを頭に入れて、自分が江戸人になったつもりで描ききらないと無理ではないかと、私には思えます。
そうではない、ただ「新聞」→「瓦版」、「美容師」→「髪結い」という記号だけ変えたものでは、時代小説の時代小説たる意味がないのではないでしょうか。
私自身は、やはり出来る限り描くその時代に沿って取材する、考える、その姿勢が過ぎ去った時代とそれをささえてきた人々、ひいては今の自分があるということへの感謝と敬意であると思うのです。
2010/02/15(Mon)
落馬しているヒマはない
ミツルギ
しんどかったので、仕事をやめることにした。
「んな安直な!」と叱られるのは承知。
否、何事も「めんどくさくなった」「アホくさい」でやめ続けている人生なので今更なおす気もない。
ただ、「やめます」と高らかに宣言してからの月日はもっとしんどい。
その「もっとしんどい」はリミット付で我慢できるしんどさであるので宣言できるというのもあるが、普段の「しんどさ」以上にしんどいことに耐えられる私をなぜ会社は組織はもっと評価しないのか?ということに対して「いつもこいつらホントに見る目ねぇなぁ」と呆れさせされるのだ。
一人だけ、「よく頑張ったねえ、このひと月特に。こんな人を辞めると言わせるなんて、最悪な会社よねえ」と言ってくれた人がいたが、どのみち引き止められても辞めるんだから、まあいいか。
別段、自分に格別の能力や技術があって驕っているのではない。人は決められた中でそれなりに最大限の努力をしようとする生き物であるという、その部分、誰しもが持つその部分を正面切って見ようとしないとこが、「こいつら……」なのだ。
なにしろ、「とりあえずやめるのめんどくさいし」という低いモチベーションで仕事している連中よりも、「こんなことやめて別のチャレンジします」という前向きな人間なのだから、そこは評価されてしかるべきだろう!と、私は昔からつねづね思っていた。
かといって、「惰性の結婚生活はやめてチャレンジを」と離婚する人を応援しているのではないけども。
何かをはじめるよりもやめることのほうが却ってエネルギーが要る、というのはこれだけはある意味事実である。
華やかな仕事をするための「しんどい」はある程度我慢できる。
誰かにほめてもらう、喜んでもらうための苦労は屁でもない。
だが、しんどいことのための「しんどい」はなかなか我慢できることではない。
たとえになっているかどうかわからないが、舞台装置を動かすという陰の作業のための肉体鍛錬とかがあるならば、それは舞台に立つ人が女形の所作を身に付けることよりもしんどいだろう。感じ方は人それぞれだとしても。
主婦の仕事、子育てもその「しんどい」に当てはまることはたくさんある。
どんな仕事にも裏方はあり、苦労はある。表に出ないしんどさはいっぱいある。
だから、「しんどいことのためのしんどいこと」をした人へのねぎらいの言葉は、万金に値すると思う。
時事ネタになってしまうが、角界における騒動で、貴○花親方の目指すところの床山さんや関係者への待遇を改善するというのは、そこにあるのではないかとも見える。
それが言えない、その思いすら至らない人間というのは、人としては真に不幸な部類ではないかと私は思う。
光が見えるのは陰があるからなのであって、光ばかりでは却って世の中何も見えなくなるように。
人の世は、つねに誰かがどこかで「しんどい」ことをしながら、誰かを支えている。その誰かが入れ替わり立ち代り、つながっていく。「しんどい」ことの上に目に見える楽しさもあり、世間の評価もある。
「しんどい」ことを常に誰か同じ人に押し付けていたら、誰だって疲弊するだろう。「お互い様」っていう言葉を知っているならば、表に立つ人は常に「しんどい」人に気付くのが当然だ。
気付かないのは、ただのバカ。人でなしともいう。
それでもなお、「しんどい」ことを一生懸命続けている人に、私は尊敬の念を抱く。
書いてて、だんだんめんどくさくなってきた(笑)。
とりあえず、私は誰に対しても「我こそは」と、名乗りをあげて一騎打ち出来る武者だと自負しているが、世の中には竹やぶからこっそり出てきて武者の乗った馬の脚をはらってニタニタしているような卑屈な足軽だらけなんである(ごめん足軽。足軽の中にも立派な心栄えの人はたくさんいる!。その逆もまたあるのは十分わかってるつもりです)。
武者だと思っていたやつも、実は影武者とか足軽が勝手に馬を拝借していただけで、がっかりなんである。
そんな足軽に馬をやられてしまってしゃあないから、今度は丈夫な馬を探そうという状態だったりする。
実はもう次の仕事は決まっているので大忙しだったりするわけで。
2010/02/10(Wed)
だめんず・うぉ〜か〜の遺伝子
ミツルギ
『結婚の条件』(朝日文庫)という本があるのです。コンカツだか何だかの特設コーナーにひっそり並んでいました。
ほーお、と何故か鼻の下を伸ばしながら立ち読みしていると(すんません)、これが少子化現象の原因についてかなりはっきりと言及されていまして、面白いのでたっぷり二十分ほどは立ち読み状態でした(本当にすんません)。
娘という種族にとって、母親という存在がいかに大きなものであり、いかにしてその願いに沿って生きるように仕向けられるかがこの本では語られております。
母親の持つ願いに無意識のうちにそれに応えようとする娘。そしてこれが少子化の原因になっているという主張ですよ。
著者の、小倉千加子さんによると「尊敬できる人」というのは自分より高学歴の男であり、「夢を持った人」というのは仕事に対してモチベーションが高く、安易に離職しない男のことで、「やさしい人」というのは、妻の生活を保障してくれるやさしさ、なのだそうです。
そうでない男との結婚ならしないほうがマシで、今の世の中女一人だってそこそこ食っていけるわけですから、そりゃ「おひとりさま」天国になって、少子化がすすんでもしかたがないわな……というわけです。
これが、少子化以前の少子化で、母子関係が密着していることから発生するということが、そもそもの原因でもあるのですが。私ら世代の時点ですでに兄弟は二、三人までが大多数。子供が少なくて、景気もいい時代だったから親子関係は密接になるでしょう。
しかし、見事なまでに私自身はこれに反発しまくっているなあと心の中で大爆笑。
『結婚の条件』でいうところの、結婚するに値しない男と結婚しているじゃん(爆)!
自分より学歴は低いし(大学院中退)、本人いわく仕事に高いモチベーションは求めてないし、できればヒモ稼業になりたいと豪語しているし、まじめでもないし、妻の生活など知ったことか的な。
だが、この本の結婚の条件をもってしても絶対にかなわない大きな条件を数々の男性(?)に突きつけて敗退させたかぐや姫の私は、今の夫に満足しているのです。
唯一絶対「束縛しない」こと。
金があっても、学歴があっても、仕事ができても、妻を心身ともに束縛するような男は最低だ、と私は思っています。
言いかえれば、「束縛」≒「依存」ですか。
相手に敬意を持って接し、自分に自信があれば、つまんないことで疑うこともないし、束縛する必要など何もないのです。
インフレが来たら紙くず同然になるささいな金や、無価値に等しい土地やとってつけたような名誉、あるいはしょせんは一皮剥けば大企業の歯車でしかない仕事のために己の魂を監獄に預けてなるか、と。
夫は、きらびやかな武器も防具も持っていませんでしたが、何故か「束縛しない」アルテマウェポンを持っていたのでラスボスの私を屈服させることが出来たのでした。
さらに笑えることに。
私の母は、いわゆる『結婚の条件』にまったく当てはまらない私の夫に対して、ミシュラン的に☆二つくらい高評価を付けているのです。
もともと私自身の自立とか学業には口うるさいものの、結婚相手の学歴とかそういうことには何も言わない人でしたが、これもまた母娘関係の密接のなせるわざなのだろうか?と。
そういえば、父も今でいう経済力は×、安定性×、やさしさ×な感じのだめんずじゃ……やはり母娘そろってだめんず・うぉ〜か〜なのか?(失礼な)
いや、だめんずおおいに結構ではありませんか。山内一豊だって、妻の内助がなければだめんずだったと思えますが。
小倉千加子さんの言う勝ち組の男は、いわゆる高度成長期時代以降のホワイトカラーにしかあてはまらず、商店街のおっちゃんや職人や芸人にはまったく無関係。
これからの世の中、そんなホワイトカラーばかりがいい待遇でいられるわけもないんですから、そろそろ「旦那様が出社している間におけいこごとなどして優雅に時間を使い、文明の利器を駆使して家事をこなし、給料袋を待ちわびて過ごす」という後付けのバブリーな「神話」など忘れて、「かあちゃんは洗濯して託児所に子供預けてパートに行って、夕食の用意をするために必死で自転車こいで子供迎えに帰って来るのが現実」で、地道に生きることが大事なんだって声を大にして言うほうが女性自身の、ひいては日本の未来のためでしょうね……。
2010/02/05(Fri)
今も昔も花鳥園
ミツルギ
1月28日、2月2日に拍手を頂いた皆様ありがとうございます。もはや、お忘れになられておられるということもあられるかもしれませんが、一言御礼をば……。いつも遅くて申し訳ありません。
近所のコー○ンに鳥のグッズコーナーが出来ていてうれしいです。
やっぱ時代は鳥だ。『とりぱん』がブーム再燃の火付け役?とか思ったりして。
『大江戸飼い鳥草紙』(細川博昭/吉川弘文館)
を読みました。以前、『鳥の脳力を探る』(ソフトバンク新書)で同じ著者の本を読んでいましたので。どうやら、著者もペットとしての鳥、人間に近い存在の鳥に断然興味が湧き、ライフワークにしたいと思われたらしく、大学に社会人入学までして研究を続けているそうです。すばらしい情熱です。
「鳥を飼うのが流行するときは景気が悪いとき」
といわれますが、もしかしたらこの大不況の中、そのジンクスがあてはまるのかもしれません。なんといってもシロフクロウやタカなどの餌代のかかる猛禽類でもない限り、家庭の中で愛玩に鳥を飼うことは、犬や猫を飼うのにくらべて経済的負担は低いわけです。
病院代も少ないし、不妊治療もいらない。ヒナがふえてもしばらくはスペース的にも大丈夫だし、マンションでも飼えるので貰い手にはそう困りません(いざとなったらわざと逃がす、という悪質な飼い主もいますが)。
江戸では事情はやや違っていました。
鷹狩はいうに及ばず、小鳥は庶民から大名、公家などにも愛されて飼われる存在でした。
もっとも、庶民は近隣の里山でつかまえたウグイスやメジロ、スズメを愛玩し、大商人や大名は舶来の鳥や品種改良した文鳥に心惹かれていたようです。
愛鳥家のNo.1はやはり滝沢馬琴でしょうか。自宅に禽舎をつくり、最大でそこに百何十羽という鳥を飼っていたといいます。何でも凝り性の人だったのでしょう。
鳥の飼育書や図鑑なども江戸時代にかなり詳しいものが出版されていたようですので、この時代の人と鳥とのかかわりは、現代よりもずっと深いものだったと考えられます。
芸をする鳥については、また別の本を読みましたので、その機会に……。
それにしても、私が小さい頃には割りとどこの家庭でもインコや十姉妹など飼っていたのに、近年は見かけませんよね。
「犬のほうがかしこいし、反応があるから」という意見もありますが、それは見解の違いでして。
鳥にだって表情がありますし、感情を表現する生き物です。おいしいものを食べさせてもらってうれしいときは、さえずります。おなかいっぱいでしあわせな時は、飼い主の手の中で甘えて眠ります。いやなことをされたときは、怒ってつつきます。
嫌いな人間は、鳥だってすばやく見抜きます。人間がかける言葉も、意味は理解できなくても音の違いやニュアンスでわかっています。
一見クールで自分勝手な生き物ですが、それが鳥のスタンスなんですよ。そうでないと生きていけない。
犬や猫に関しては、確かに存在は近いし、まるで子供のように扱っておられる人もありますが、「見てるぶんにはいいけど、実際世話したり相手するといつもいつも、ってのはちょっとめんどくさいのよね……」なんていうのもいえるわけですから。
私自身は、鳥のそのクールさ冷徹さ、そして自己責任上等!な面も魅力に感じてるんですけども。
『とりぱん』の読者コーナーにもあったのですが、野生のスズメが傷付いたハクセキレイに餌を運んだり、傷にわいた虫を取ってあげたりして、数日後には元気にセキレイとスズメが並んでいたという話。こういう話は実際に多く聞きます。
互助関係はあるとしても、そこにまったく同種の鳥としての感情がない動物とはいいきれないでしょう。
行き倒れのホームレスの人を見ても知らん顔の人間(それどころか撤去しろという通報をする人だっています)がうようよしている日本人と、どう違うのだ。どちらの命の重さが違うのだと問いただしたいところですが。
余談が過ぎてしまいましたが(笑)。
本書で「鳥見茶屋」というのが紹介されています。
めずらしい孔雀や南蛮渡来の鳥、花を見ながら喫茶するという娯楽なのですが、これってまさしく今の「鳥見カフェ」はたまた「神戸花鳥園(とそのグループ)」やん。
江戸文化さっすが!と手を打ってしまいました。
鳥って、今も昔も見てるだけで癒されるものなんですね。
2010/02/01(Mon)
金と歯ブラシは貸せん
ミツルギ
まーったくどうでもいい話なのですが。
世の中で「これは正しい日本語ではない」と言われている言葉遣いで、ついつい使ってしまうものと、そうでないものの線引きってどこなんだろう?と疑問に思ってしまいます。
たとえば「1000円からお預かりいたします」。
これ、うっかり口走ってしまうことがあるのはわかります。シチュエーションとして、有名百貨店でもセレブな専門店でも室町時代から続く老舗でもなく、コンビニやスーパーでは、別段「1000円のお預かりでございます」というご丁寧な言い回しである必要はないのです。
むしろ、丁寧すぎて、コンビニのコンビニたる意味がない。まさかお客のほうもコンビニでフリスク一個買って、「お会計105円でございます。お支払いはどのようにさせていただきましょうか?」と言われ、店内を出る際に45度のお辞儀をされることは期待していまい、と。
それゆえの「○○からお預かりします」「××のほうでよろしかったでしょうか」になってしまうのは、心情的に理解出来ます。
これは、高度成長期時代までほとんどなかったスーパーやコンビニあるいは外食産業におけるファミレスという中間小売業者層の台頭による社会現象であって、もはや個人レベルでどうこう止められるものではないと思えます。
それまでは、偉大な百貨店か近所の八百屋という極端な選択しかなかったのですから。
それはさておき。
私が近年もっとも享受し難い、かつ理解不能な言葉に、
「普通においしい」
という言い回しがあります。
「おいしい」でも「すごくおいしい」でも「超おいしい」でもない。
「普通」と「おいしい」という等関係として成立しない形容がワンフレーズに乗っかっていることのブキミさは、私にとってはそこはかとない恐怖なのです。
味を評価する言葉としては、通常は、不味い<やや不味い<普通<ややおいしい<おいしい<すごくおいしい…というような感じではなかろうか?
なのに、普通=(≦)おいしいとはどういうことだ?
まてよ。もう一回考え直して、そのTPOからすると、どう見てもおいしくなさそうなものを食べてみて、「普通においしい」だと、意味が変わってくる。
「普通ではない見た目だけど、食べてみると意外においしい」という意味ならば理解出来る。だとすると、「普通はおいしそうに見えないけどおいしい」という言葉の省略形?
……とまあ、ぐるぐる考えるわけですが。
そもそも「普通」という言葉の範疇をはっきりさせて欲しいというところからはじめないといけませんし。
何ゆえにそういう曖昧模糊とした、決して等関係ではないものがくっつくかという現象の理由はわからないでもないです。ええ、わかるんですよ。
「ブサかわいい」とか「キモかわいい」とかいう造語が流行するのと同じで。
ニュアンスとしては、「あえて命かけてもこの味を守りたいとか、下賜品のように死ぬ前に食べたいというほどの極めつけの美味ではない、ありきたりかつ安心できるおいしさである」ということを意味するのではないかと予測していますが。
そう。そこには付加価値が少ない単体だけでの美味とか、リスクヘッジ的な旨みとかを感じるわけです。
近い表現としては「あら。100円なのに意外においしいわ」というような。
なら「意外においしい」でいけよゴルゥアアアアと首根っこ掴みたいのをおさえつつ、「普通」というどうでもいい言葉のマジックを信用してるわけだコイツ(フッ)と心の中で笑ってみる余裕がまだ私にあるなら、聞き流そうかと。
感情的には「普通」といわれたひにゃ、何でお前ごときにこの羊羹(でも何でもいいんですけど)を作るために奔走した人の気持ちとか時間とか辛苦が評価されなあかんねん、と行き場のない怒りに燃えてしまうんですよね。
はっきりマズイならマズイと言ってあげようよ。おいしいならおいしいで褒めてあげようよ。「普通に」とかいうその適当で「私はあなたには深入りしたくありませんし」みたいな態度がどんなに玉虫色でモラトリアムで、摩擦をさけようとするだけの小細工にしか聞こえないか。まるで、現代社会の縮図そのものじゃないか。
そんなナァナァ事なかれ主義が日本人の魂をふやけさせたんじゃあ、と。
はっきり言わないと、積もり積もって「普通においしい」ものばっかりに囲まれた「普通に面白くない出来のよくもなく悪くもない日本」になるんだぞ、と。
まあ、一言でいえば「普通においしい」は、「なんだか他人様の仕事や人間関係を小ばかにしたような表現」であるところがムカつくわけです。
本気でぶつかる気がないといいますか、自分が「まずい」と言ったことで跳ね返ってくるリスク(仲間はずれとか味音痴とかいわれる)を避けたいがために「(そこまでおいしくないけど、まあ不味くもないしってことで)普通においしい」という姑息な言い方が。
って、そこまで考えませんか?あ、そっか。
結論としては、現段階ではやっぱり私の中では消化し切れない。ってことで、自らは一切使用しないことにしました。
ついでに、その言葉を使っている人に対しても私の中から評価が下がるってことも……付け加えておきます。
2010/01/28(Thu)
追悼
ミツルギ
人間、夜は一日に入ってくる情報のストックがまだ処理しきれないまま蓄積されて、睡眠中に脳はそれらの情報を分析、整理しなおすのではないかと思えます。
その最も蓄積された段階で、大ニュースに出くわした瞬間、脳はフリーズするしかない。
とりあえず、強制終了でもして立ち上げなおすしかないPCのような状態になるのではないかと。
ミステリ作家・北森鴻氏が逝去されました。25日のことです。積んでおいた新聞の訃報欄を読むまで気付かなかった自分が愚かしいのですが。
享年48歳。ありきたりな言葉ですが、早すぎる。
氏の作風は緻密な取材と構成の確かさに裏打ちされたオーソリティなミステリが持ち味でした。
一時期ブームになった某大学推理研出身者のようなトリッキーな推理小説は、実は私は苦手で、ミステリからは久しく遠ざかっていたものでした。
ですので、氏の小説に出会って欣喜雀躍したものです。
民俗学、骨董、古美術、グルメ、古典芸能とお詳しいにもかかわらず、薀蓄に傾き過ぎない理知的で清々しい筆致も魅力のひとつでした。
たとえば、日本人のネーミングの場合、父親の名前の一文字をとって子供につけるとか、武士の名前のように代々同じ漢字を一字入れるとか、兄弟で同じ一字を使うとかいう命名がありますが。
中国人は兄弟では同じ漢字を用いません。親子でも同じです。尤も時代によっても流行があるので、すべてがそうではありませんが。
以前、とある小説を読んでいて、中国系の人物の兄弟に同じ漢字が用いられていたので、「この作家、勉強不足だな」と思ったものです。そういう発見は、しばしばあります。わからないなら、生半可に知識をひけらかすなと思うのです。指摘しても、知らぬ顔ですし(苦笑)。そういう不敵な作家は少なくないです。
読者はいったい、どの道のプロフェッショナルかもわかりませんし、そんな人の手に取られる作品がノリだけで書き切ったものでは、世間を、そして文字をつらねて金銭を得ているという行為を舐めているように思えてならないんです。
それでも、すべてがすべて作家は知っていないといけないというものとも言えませんし、また誰しも間違いはおかすものです。要は謙虚な姿勢ですよね。
(余談ですが、SF界の大御所の方で、評論の中で徳川時代の将軍をコレラで死んだと書いていた方がいらっしゃいましたが、それは実際薩摩藩の藩主でして。しかも、事実は明らかではないし毒殺かもしれないという噂もあるものです。でも、誰も指摘せず、訂正もしていないのが文筆界の恐ろしさです。いやはや、いい加減というか、ネームバリューって……)
ところが、北森鴻氏の作品には、そういう欠点が見当たらないのです。
韓国朝鮮系の人物の名前は、中国とは違い、男兄弟では同じ漢字を用います。
その辺の日本と朝鮮と中国の命名方式については、また機会があれば考察を述べたいものですが、それはさておき。
氏の『狐罠』に登場する人物には、見事にその区別がなされていました。
「この人、やっぱり出来る」と感動したものです。
ドラマ化されたり(一度だけありますけど)華やかで目立つ作家ではないのですが、堅実でハズレのない作品ばかりでした。作中に時折見せる氏のやさしさや人間への情感が、ささくれだった心に一服の清涼感を与えてくれたものです。
いま、何より悲しいのは、氏の今後の作品が読めないということでしょう。
楽しみにしていたシリーズもあれば、まだ見ぬ世界の作品も。
作家としてこれから脂がのってくるという時期だけに、本当に残念でなりません。
哀悼の意をこめて、ここに記します。
2010/01/24(Sun)
きいろの香り
ミツルギ
18、20日に拍手を頂いた皆様ありがとうございます。
また間があいてしまいました、すみません(汗)。
私事でごたごたしていまして、落ち着かないまま日々が過ぎていきます。更新を……と思いながら、PCで行う作業はほぼ某所の原稿書きが占めているというありさまで、こちらは手付かず。
……ご訪問くださる皆様には申し訳ありません。
『きいろの香り〜ボルドーワインの研究生活と小鳥たち』(冨永敬俊/フレグランスジャーナル社)
新本で見つからず、やむをえず古書で手に入れた一冊です。
人生を変える(た)一冊といっても過言ではない本です。
少なくとも私にとっては。
簡単に言えば、日本人として始めてボルドー第二大学で博士号を取得したワインの研究者・富永博士の研究生活と成果をつづった本です。
実は、この著者である冨永博士は2008年にボルドーで逝去されています。53歳という若さでした。
本は2003年に出版されたものです。
もともと薬学の研究者であった富永博士が偶然にワインに出会い、その香りに魅せられて無謀ともいえるボルドーへの留学を決意し、白ワインの香の研究者としては世界で第一人者といわれるデュブルデュー博士に師事するところから、物語ははじまります。
そこから富永博士の苦悩と歓喜交々の研究生活が語られていきます。
内容のほとんどは、ワインを突き詰めた、もしくはこれからそうしようという人間でない限り難解そのものです。アロマがどうのプレカーサーがカシスの芽の香が……なんていう内容ですから。
その中の一章を割いて、「きいろ」という小鳥の話がつづられています。
ボルドー大学の敷地内でひろった黄色い小鳥の雛を富永夫妻はアパートで育てます。
やがて「きいろ」は換羽して、本当はメーテルリンクの『青い鳥』のモデルともなったメザンジュ・ブルー(アオガラ)という小鳥だったことが判明するのですが・・・…。
きいろが冨永博士の過酷な研究生活に安らぎをもたらしたこと、そして本当にしあわせの青い鳥のごとく、研究へのヒントを導き出してくれたことは、想像に難くありません。
小鳥を愛する私自身にとっても、あの小さい愛らしい生き物がどれだけ人間の孤独な心に歓びを与えてくれることか、思い巡らすだけで何とも言えず涙があふれてきます。
(余談ですが、ヨーロッパ人は小鳥が好きですので、富永博士が「きいろ」を可愛がることもすごく好意的に見られたようです。日本では農作物を荒らす害鳥とか、フン害がと嫌われていても、ヨーロッパではぶどうを食べる鳥を駆逐することはほとんどありません)
その「きいろ」の名前がつけられたワインが2006年に誕生しました。
メルシャン「甲州きいろ香」。
日本のシャトーメルシャンと富永博士のグループの研究が実ったわけです。
「きいろ」と出会うためにボルドーへ赴き、このワインを生み出すために一生を捧げたかのような博士の人生に乾杯を。
経済的に豊かであるとかそうでないとか、文系だとか理系だとか、物事を始めたのが早いか遅いか、そんなことは瑣末なことでしかない。とにかくひたむきに生きる、ということの意味をもう一度考えさせられた一冊です。
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